Kanon89’s blog

花音鍼灸治療院のブログ

季節感

先日アップしたダリアですが、患者様に季節のずれをさりげなく指摘されました。
洋花、特に生花店で売っているものは、あまり季節感を考えず、その日売っている一番物の良いものを選んでいましたが、やはりそれは道に反するのだと考え直されました。
さらに一歩進めて考えれば、季節は施術にも大きく関わってくるもの。
施術において季節を考慮することは基本中の基本。飾る花一つと甘く考えていると、とんでもない落とし穴が待っている気がします。
細く厳しい道ですが、そのことを改めて気づかせてくれた患者様に感謝です。

心に寄り添うということ。

昔、(否定ではなく)批判的精神の大切さ、まずは物事を疑うこと、と何かで読んで、

そんなものかなと批判的精神を養おうと努力した。

おかげで世相に流されず物事の裏側がだいぶ分かるようになったけれど、

この仕事をしていると、そのクリティカルな視点が邪魔になる時がある。

よくあることだけれど、一度努力して得たものを捨てる。

患者さんの心に寄り添うには一時すべての批判精神・ジャッジメントを捨てなければならない。

のみならず、自分の価値観・自分というものをすべて捨て去り、今向かい合っている人に最大限の共感、

よく言われる言葉に「あたかも自分自身のものであるかのように」という無私の領域に入らなければ、

本当に「患者さんの心に寄り添う」ということはなしえない。

言葉でいうのは簡単ですが、これには日々の訓練が必要です。

JUST DO IT

以前、ナイキのコピーに「JUST DO IT」というのがありました。

禅の影響が感じられる良いコピーだと思いましたが、友人に感想を尋ねると好きではないと言います。

よくよく考えると何か受動的に、ただ何となくやるというようなニュアンスにも取れなくありません。

そこで「JUST DO IT THE BEST」としたらどうでしょうか?

うん、こっちの方が好ましい。

花無心

「花無心招蝶 蝶無心尋花」(花無心にして蝶を招き、蝶無心にして花を尋ぬ)

良寛禅師の禅語だそうです。


ある日、いけばなの稽古の帰り、ふと立ち寄った蕎麦屋の掛け軸にこの言葉がありました。

その日の稽古は納得のいくものではなく、なんとなく落ち込んでいたところに、この言葉がはっと心に沁み入りました。

「花無心」。いけばなで上手く生けよう、趣向を凝らそうなどと考えるのは人間の側の都合。

花自身はそんなこと関係なく己が存在をかけて精一杯咲いている。

その後、こんな詩が生まれました。

「花無心」


花はいい。
何も言わず静かに咲いている。
無心に全身全霊を込めてただ咲いている。
己の存在をかけて精一杯咲いている。
周りは花を愛で、癒され、賞賛するが、そんなことはおかまいなしに無心に咲いている。
時期がくれば散る、何の嘆きもなしに。
花は美しい。
存在そのものが美しい。
そんな花のように生きたい。
花のように生き、花のように散っていけたなら。


治療院の名は「花無心」としよう。

(結局、花音鍼灸治療院に落ち着きましたが。)

 

流水不腐

滞りが病の一番の原因と考えています。
凝りをほぐし、冷えを温め、心のわだかまりをなくす。
いたってシンプルです。
ですから花音鍼灸治療院は局所治療はいたしません。全身の流れを重視します。
滞りがなくなれば自然治癒力が最大限発動されます。
体は治りたがっているのです。
古代中国に書かれた『呂氏春秋』という本があります。そこにタイトルで取り上げた「流水不腐」という言葉が出て来ます。
「流れる水は腐らない。」
人間の身体も同じです。人間も自然の一部ですので自然の法則に従います。
花音鍼灸治療院は机上の空論や迷信を排除します。

なので陰陽論は取りますが五行論はほとんど重視しません(いろいろ考え方はあると思います)。
鍼灸に「虚実に補瀉あるのみ」という言葉があります。
いたってシンプルです。
ただそれ以上に極意があることを知りました。(つづく)

人物画教室

昨年から続けている休日のクロッキーと人物画の教室は、大前提に人物を描くのが好きということがあるのですが、人体を描くことにより様々な気づきを与えてくれます。
まず人体を描くのですから仕事に直結して勉強になるのは当然、さらに決められた時間の中で一発勝負の濃密な時間は施術にも通じるものがあります。
限られた時間の中で対象に没入して全てを忘れて集中することは、”無心になる”ということに一番近い経験だと思っています。
こんな経験はなかなか出来るものではないので、隔週の絵画教室をとても楽しみにしています。